コペンハーゲンの昼下がり

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ライプニッツ・ノート①:自己立法的な、自由な存在としての神

これから数回に分けて、ライプニッツ哲学の基本思想について論じたい。ライプニッツといえば、17世紀をドイツに生きた哲学者であり、しばし「万能の天才」とされる人物である。その理論の射程は哲学(形而上学という意味で)のみならず、物理学・数学・政治学・経済学などあらゆる学問に達し、政治家としても活躍した。
その判定方法は不明瞭だが、以下のサイトでIQ205などとされている。まぁ何はともあれ、人類史に輝く天才である事は間違いない。

歴史上の天才たちのIQはいくつだったのか…世界の知能指数ランキング10:らばQ

近代科学の発展に大きく貢献した人物でありながら、同時に彼は、独自の形而上学的世界認識もまた確立した。それが彼の「モナド的世界認識」である。

まず本記事では、彼が描いた「神(第一原因)」について考えたい。これは、現在精読しているカント批判哲学の理解という観点から見ても、非常に重要なものである。

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ライプニッツ哲学における充足理由律

様々な分野を横断して展開されるライプニッツ思想だが、領域を横断して通底する基本原理が存在する。それは、「充足理由律」である。

この原理によって、我々は、「事実がなぜこうであってそれ以外ではないのかという事に十分な理由がない限り、いかなる事実も真である事あるいは存在することができず、またいかなる命題も真である事はできない」と考えるのである。(『モナドロジー』)

平たく言うならば、「全てには理由がある」。世界はいま我々に現前するようにできているが、このようなあり方をしているのには理由がある。ライプニッツはこう考えるのである。

そして、ある存在が「こうある」という理由について説明する際に、その説明は全宇宙とその歴史を全て含む。例えば、いまこのように生きている私について完全な説明を試みようとすれば、それは私の人生だけで完結するものではない。私の生まれた家庭の話や所属している宗教団体の話、進学した学校や、就職した会社の話もしなければならない。それはさらに、母国である日本や世界の歴史、さらに太陽系、宇宙の起源と、空間的・時間的にどんどん拡張されねばならない。

この世界の必然性

ライプニッツは「神」を「事物の第一の理由」であるとする。先ほど、充足理由律について説明したが、あらゆる存在の第一の理由を供給する存在—それが神なのである。
ここでライプニッツがその神論について論じた『弁神論』から、重要箇所を引用する。

さらに、この「原因」なるものは、知的なものでなければならない。なぜなら、現に存在しているこの世界は偶然的なものであり、他の無数の世界と同じように可能であって、いわば存在する事に対してこの世界と同等の要求を行っているのだから、世界の「原因」なるものは、そうした無数の世界から1つの世界を絞り込むために、それらすべての可能的世界を考慮すなわち参照したはずだからである。(『弁神論』)

これはライプニッツにおける「世界の共可能性」という考え方を反映している。すなわち、世界はほかのあり方で存在することもできたが、神は現にこうしてある世界のあり様を選んだというものである。我々が「どうして神は世界をかく創ったのか」という考える時、それはこうした共可能性を前提としている。少なくとも我々は、「他の世界のあり方も可能であった」と想定することができ、そのような他の世界のあり方の観念を持つことができる。

この考え方の特異点は、スピノザ哲学と対比する時明らかになる。スピノザは『エティカ』において、存在するすべての事物は必然性によって存在するとした。世界に偶然はなく、公理から定理が自動的(論理的)に帰結する様に、様々な現実存在が規定される。存在しない事物は不可能であり、神は存在できる事物をすべて創造した。それはいわば、「幾何学的必然性」である。

ライプニッツは世界のあり方を、「この世界はこうあらねばならない」という必然的なものであるとする。しかし彼は、スピノザと異なり、それは幾何学の公理系の様に自動的に決まるものではない。神は、複数の世界のあり方を観念として持ち、その力能の可能性としてはどの世界も創造することができる。

神の創造の恣意性

しかし上述の「共可能性」を認める時、幾つかの難問が浮かぶ。様々な世界のあり方が可能でありながら、神はなぜこのように世界を創造したのか、という事である。ライプニッツは述べている。

ここに3つのドグマがある。①正義の本性は恣意的である。②正義の本性は確固としているが、神がそれを遵守するかどうかは確実ではない。③我々が知っている正義は神が遵守する正義ではない。(『弁神論』)

これは、「神の恣意性」をめぐる主な見解をまとめたものである。これは「世界における悪の問題」と深く関係しているが、それについては後述する。とりあえずここで問題とされているのは、「あらゆる世界を創造する自由を有する神が、どのようにして現実化したこの世界を選んだのか」という事である。

この問題の前提となっている命題は、「神は善である」ということであろう。神が善である以上、その創造行為において神は「正義」に従うように思われる。しかし、その思考は新たな難問を生む。それは、「正義」が絶対の存在者である神を拘束するということに対する疑義である。

こうした疑義に答えたのが上述の3つの意見だ。①の立場では、神の本性は「善」であるが、何が善であるかは神が恣意的に決めるものだ、というものである。②の立場は、神は正義に従属するものではないとする。そして③の立場は、神は善であるが、それは人間の考える「善」と異なるというものである。

こうした見解すべてに、ライプニッツは異議を唱える。

いずれも、我々に安息をもたらすはずの神への信頼を破壊し、我々を幸福にするはずの神の愛を破壊する点では同じである。(『弁神論』)

まず、①の回答に対するライプニッツの反論を見てみよう。もし「神が欲したものは何でも善」であると考えてみる。すると、殺人や強姦、拷問といった所業が「悪」である理由は、ただ「神が悪と決めたから」というものになる。原理的に考えれば、ホロコーストが神の恣意によって「善」とされるような世界も想定できる。これは、神の善性を揺るがす見解として、ライプニッツは退ける。

②の回答については、神が「正義」に従属するものではない以上、「善」でも「悪」でもあり得ることになる。③の立場は、人間的立場からの「正義」の希求の意味を無にしてしまうものである。

ライプニッツにとっての「神」

上述の世界における「絶対的必然性」と「恣意性」に対して、ライプニッツはどのように応答したのか。

一方では神の独立性と被造物の依存性を支持し、他方では神の正義と善をを支持する、というのが適切なやり方である。そして神が正義にして善なる存在であるならば、神は自らにーすなわち神の意思は自らの知性と知恵にー依存することとなる。(『弁神論』)

つまりこういう事になる。
善なる神は、「正義」に従って世界を創造する必然性を持つ。しかしその「正義」は神の善なる意志に基づくものであり、この主張は完全な実在性を有する神を、神以外の存在に服属させることにはならないのである。

これは、世界には複数のあり方が可能であるという「共可能性」においてスピノザ的絶対必然論を拒否している。さらに、神は知性において複数の可能な世界の観念を持つことができながらも、この所与の世界のあり方は必然的である。なぜならそれは、神自らから発した「正義」によって自らを規定するという必然性に基づくからだ。さらにそれは神の本性である善意志に理由を持つものである以上、神の「自由」を制限するものではない。

この「自らを規定する神の自由」という考え方は、カントの道徳論を考察する際にも重要となる。