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コペンハーゲンの昼下がり

読んだこと、考えたこと、つらつらと。人生三十年、それで十分、その前提で人生設計。

『純粋理性批判』を読む Vol.3 「質・量のカテゴリーにおける背進的総合」

(本記事は、「『純粋理性批判』を読む」という連載の第3回目に当たります。過去記事一覧は、以下。)

copenhagen37.hatenablog.com

 

前回記事において、以下の2点が明らかになりました。

●超越論的な理念は、理性が知性にその概念を無限に過去へ遡行させる事を要求する事によって成立する。

●知性のカテゴリーから超越論的理念を考察する事ができるが、すべてのカテゴリーが利用できるわけではなく、選別が必要となる。

本記事では、超越論的理念の足場となるカテゴリーの分別作業を概観します。

範囲:『純粋理性批判』5巻 29頁〜32頁(中山訳)

空間における無限の遡行

第一のカテゴリーは、「量」です。これは単一性、数多性、総体性から成立しますが、要は「一」を単位として、それを積み重ねていくことによって得られる量の外延量であり、時間と空間がこれに当たります。
前回記事において、時間における背進的進行について考察しました。そこでは、〈条件づけられたもの〉から〈条件づけるもの〉へと、つまり現在から過去へと遡行していくプロセスと、理念の要求によるカテゴリーの超越論的理念化の設定を見る事ができました。
しかし、これは「空間」においてはどのように考えればいいのでしょう?「時間」における変化する事物ならば、それは継起的に存在するため、時間軸に沿って背進を進めていけばいい。

しかし空間については、前進と背進の区別はない。空間のさまざまな部分は、同時に存在するのであり、空間は部分的な空間の集合であって、系列ではないからである。(中略)空間の部分は互いに他の部分に従属するものではなく、並列的な関係として存在するものであるから、一つの部分が他の部分を可能にするための条件となる事はない。空間は時間と違って、それ自体で系列を作り出すものではない。

カントのこの文章は、空間が時間とは異なり、〈条件づけられたもの〉から〈条件づけるもの〉へと進行することのできるような、系列ではないと言っています(少なくとも、それ自体では)。時間の場合は、いまにおける出来事mの条件は、時系列的にその前にあるlに遡れば事足りました。しかし、空間において、例えば任意の空間aを切り出しても、それは空間の一部分を成す部分に過ぎません。空間とは、そうした部分によって成立した集合に過ぎない。それは、時間が過去が現在を条件づけるという系列であった事とは、大きく異なるのです。
この空間について、どのように考えるべきか。カントの答えは以下の通りです。

わたしたちが空間を把握するときには、空間の多様な部分を総合するのであり、そのときにはこの把握は継起的であり、時間の中で起こるために、一つの系列を含むものとなる。この場合には、与えられた空間の部分から一つの系列が始まるが、これによって生まれた系列は、集められた部分的な空間の集合で構成される(たとえば、1ルーテの長さに含まれる1フィートの長さの空間の集合)。
この系列においては、一つの空間に頭の中で考えた別の空間を加えてゆくのであり、この別の空間が前の空間の限界の条件となるものであるから、ある空間を測定するという行為は、与えられた〈条件づけられたもの〉にたいする〈条件づけるもの〉の系列を総合する行為として考える必要がある。

長い引用となってしまいましたが、要約すると以下でしょう。

我々は空間を把握する際に、それ全体を一気に把握できません。空間の中の「部分」を切り出して、まずそれを認識する(この部分を仮にR1とします)。それよりも大きな空間を把握しようとするとき、我々は新たに把握した空間(R2とします)を最初に把握したR1と総合するのです。
これは時間の内部で起こるので、一つの系列を成します。つまり、最初に測定された空間(R1)は、続いて把握された空間(R2)によって条件づけられている。

総合された後の空間を見れば、そこにR1、R2という区別は無く、ただ等質な空間が広がっているだけです。しかしそれを人間が総合して行く過程として見るとき、与えられた部分に新しい部分を総合して行く過程、つまり〈条件づけられたもの〉から〈条件づけるもの〉への背進的進行とみなすことができるというのです。

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ただし〈条件づけるもの〉の側が、その後に付け加えられるはずの〈条件づけられたもの〉を含む側とはそれ自体では区別されないために、空間のうちでは背進と前進とが同じ方向に進むように見えるのである。

この文章の意味は、以下のようなものだと思います。
時間における遡行は、L➡M➡Nというように時系列に沿っているため、その順番がわかりやすいものでした。しかし空間においては、同質な空間の異なる部分を総合して成立するため、それだけ見ても〈条件づけるもの〉と〈条件づけられるもの〉の関係を見出すことができない(背進的か、前進的かわからない)。しかし、人間がそれを把握・総合して行くプロセスとして見たときには、それを同質な全体としてではなく、継起的な総合の結果と見ることができるのです。

「背進的総合」の意味

かくしてカントは、以下のように結論します。

このように限界を設定するものという観点から考えると、空間における進行も背進的なものであり、〈条件づけるもの〉の系列の総合の絶対的な全体性という超越論的な理念は、空間にも妥当する事となる。そこでわたしは過ぎ去った時間における絶対的な全体性という理念と同じように、空間についても現象の絶対的な全体性を問題にすることができるわけである。

しかし、一つの疑問が湧きます。
与えられた空間から始めて、それに別の空間を足して、足して、足して・・・という総合は、未来にベクトルを向けて成されるものです。これは、時間における背進的総合が過去に向かっていたのとは逆です。それが「未来」に向かうならば、「背進」的総合ではなく、「前進」的総合ではないのでしょうか?
再度、「背進的総合」の定義を見てみましょう。

わたしは、〈条件づけるもの〉を遡る系列、すなわち与えられた現象から始めてそのもっとも近い条件を求め、次々に遠い条件にまで遡って行く系列の総合を背進的な総合と呼ぶことにしよう。

これで疑問が氷解しました。
つまり、前進的/背進的の区別を決めるのは、それが向かう方向が未来/過去であるかではない。それがたとえ未来に「前進」するものであったとしても、〈条件づけられたもの〉から〈条件づけるもの〉へと進行する限り、それは「背進的総合」なのです。空間の総合においては、それは「未来」へと空間の部分を無限に総合して行くものでしたが、それはあくまでも〈条件づけるもの〉への進行です。ですからこれは、「背進的総合」なのです。

物質の分割においても求められる「絶対的な完全性」

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続いてカントは、これまで見てきた「空間の総合」の逆方向の議論を始めます。それは、「空間の分割」です。これは、第二のカテゴリーである「質」と関連しています。質のカテゴリーでは、「コーヒーは苦い」などの主語の性質を表す判断が対象となりますが、この性質はその物質の内的な条件によって規定されています。

第二に、空間における実在的なもの、すなわち物質は〈条件づけられたもの〉であり、その内的な条件は空間の部分であり、その部分のうちの部分が、さらに〈遠い〉条件を構成している。だからここにも背進的な総合が成立しているわけであり、理性はこの総合にも絶対的な全体性を要求する。この絶対的な全体性が成立するのは、物質が完全に分割されて、ついに物質の実在性が消滅して無だけが残るか、もはや物質ではないもの、すなわち〈単純なもの〉だけが残るかのいずれかの状態に到達したときだけである。

これまで見てきた空間の総合における「背進的な総合」とは真逆であり、ここでは物質をどんどん分割していきます。それにもかかわらず、これもまた「背進的な総合」である。その理由は、より小さな部分が、大きな部分を条件づけているからであり、後者から前者への進行は、その意味で「背進的な総合」であるからです。

次回は、残り2つの「関係」と「様相」のカテゴリーについて考察します。