読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

コペンハーゲンの昼下がり

読んだこと、考えたこと、つらつらと。人生三十年、それで十分、その前提で人生設計。

『純粋理性批判』を読む Vol.2 「背進的な総合」

(本記事は、「カント『純粋理性批判』を読む」の第2回目の記事です。記事一覧は、下記をご覧ください。)

copenhagen37.hatenablog.com

前回記事にて、二律背反における「超越論的理念」とは、経験可能な現象を足かがりにして成立するものであることがわかった。それを踏まえた上で本記事では、どのように超越論的な概念が作り出されるのかを考察する。
キーワードは、「条件づけるもの」と「背進」である。

f:id:seren316:20160903072214j:plain

知性を解放する存在としての理性

カントは、超越論的理念について、2点の注意点を挙げている。

第一に、純粋で超越論的な概念を作り出すことができるのは、知性だけであること、そして理性はそもそもいかなる概念も作り出さないということである。理性は単に、可能的な経験につきものの制約から知性の概念を解放するだけなのである。理性は、経験的なものの限界を超えでるために、知性の概念を拡張しようと試みるのである(ただし理性はつねに知性の概念を経験的なものと結びつけたままにしておこうとする)。

このカントの記述によれば、理性は超越論的な概念を作り出すのではない。それは知性によって作り出される。
この「作り出さない」という断言は、微妙な感じがする。他の箇所で、果たしてカントが「理性が概念を作り出す」と言っていないのか、改めて注視してみたいけれど、要は「純粋理性の理想」と「純粋理性の二律背反」の違いを明らかにするために、このような記述をしているのだろうと考えられる(前者は、経験一般と関わりのない可能的なもの一般に関わる)。

取り敢えずこの記述に従うならば、理性は「知性の概念を解放・拡張する」だけであり、そのことによって超越論的な概念は成立する。この知性とは、感性によって与えられたものを概念化する能力であり、その形式は12項目のカテゴリーである。

【量】
単一性、数多性、総体性

【質】
実在性、否定性、制限性

【関係】
実体性、因果性、相互作用性

【様相】
可能性、現実性、必然性

絶対的な全体性を所有する総合

そのために理性は、与えられた〈条件づけられたもの〉にたいして〈条件づけるもの〉が絶対的な全体性を所有するものであることを要求する。知性はこうした〈条件づけるもの〉のもとで、すべての現象に総合的な統一をもたらすのである。これによって理性はカテゴリーを、超越論的な理念にまで仕立て上げる。

超越論的な概念が作り出されるにあたっての、理性の役割が少し明らかになってきた。上述のカントの記述内における知性と理性の役割を整理すると、以下のようになる。
●理性は、〈条件づけるもの〉が絶対的な全体性を所有することを要求する。
●その要求に応えて、知性は絶対的な全体性を所有した〈条件づけるもの〉のもとで、現象を統一する➡カテゴリーが超越論的な理念になる

確かにこれを読むと、理性は超越論的な理念を作り出していない。ただ知性に〈条件づけるもの〉が絶対的な全体性を所有することを「要求」しているだけである。
この点は、以下の文章を読むとさらに明瞭である。

理性はこのことを次の原則の元で、すなわち「(条件づけられたもの)が存在する限り、(条件づけるもの)の全体、すなわち絶対に無条件的なものも与えられているのであり、(条件づけられたもの)を可能にしたのは、この絶対に無条件的なものだけである」という原則のもとで要求する。ところで第一に、超越論的な理念とは、無条件的なものにまで拡張されたカテゴリーに他ならない。

かなり知性・理性の役割や超越論的理念の性質がわかってきた。
つまり、理性は、超越論的理念を作り出すのではない(ゼロからイチにcreationしない)。それは、知性にアプリオリに備わったカテゴリーを材料に、それを拡張させて作り上げられる。理性は知性(カテゴリー)に対して、経験によって与えられた〈条件づけられたもの〉は、絶対的な全体性を所有する〈条件づけるもの〉によって可能になることを要求する。
この要求の結果、カテゴリーは無条件的なものにまで拡張され、それが超越論的理念となる。

f:id:seren316:20160903072237j:plain

使えるカテゴリーと、使えないカテゴリー

これまでの読解によって、超越論的な理念は、知性のカテゴリーが拡張されることによって成立するものであることが明らかになった。
そうなると、カテゴリーを足場に、超越論的理念を考察することは自然であるが、カント曰く、この考察に当たってすべてのカテゴリーが役立つわけではないという(これが第2の注意点となる)。

第二に、そのためにすべてのカテゴリーが役立つわけではないのであり、ある系列のもとに、総合されたものを配列するカテゴリーだけがその目的に役立つ。すなわち、〈条件づけられたもの〉を〈条件づけるもの〉のもとに配列するカテゴリー、ただし並列させるのではなく互いに従属した条件の系列に配列するカテゴリーだけが役立つのである。

ここでは、「役立つカテゴリー」の条件が記載されている。それによれば、「条件づけたもの➡条件づけられたもの」というような形式に、認識したものを概念化するカテゴリーだけが、超越論的理念の考察に役に立つ。その理由は、理性が要求するものが「条件づけられたものを可能にした、絶対的に無条件的なもの」であり、これに合致するカテゴリーが上述の形式だからであろう。

未来は問題にならない

しかし問題となるのは、「条件づけられたもの」から「条件づけるもの」への遡行、つまり過去に遡ることであり、その逆は問題にならない。与えられた系列を、未来に向かって進行することは問題にならないのである。

ある帰結からその帰結への進行によって、すなわち与えられた〈条件づけるもの〉から〈条件づけられたもの〉に下降する系列が集結するかどうかは、ここでは問題とはならない。この系列に全体性があることを、理性は前提にしていないのである。だから私たちは必然的に、与えられた瞬間にいたるまでに経過したすべての時間を、与えられたものとみなすものである。しかし未来の時間については、未来は現在の瞬間に到達するための条件ではないのだから、現在を把握するために未来の時間をどう扱おうとも、まったく構わない。どこで終結させようとも、無限に継続させようとも、問題ではないのである。

乱暴に言ってしまえば、未来などここではどうでもいい。問題は、現在とそれを与えた過去だけである。
しかし、ここで疑問が生じるかもしれない。理性が要求するのは、経験の系列の「絶対的な全体性」ではなかったのか、と。全体性というからには、その系列には始まりがあり、また終わりもあるような気がする。「この系列に全体性があることを、理性は前提にしていないのである」という文章も、これまでの記述と矛盾しているように思われる。
しかし、先述の「理性の原則」再度引用してみると、カントは慎重に記述していることがわかる。

「(条件づけられたもの)が存在する限り、(条件づけるもの)の全体、すなわち絶対に無条件的なものも与えられているのであり、(条件づけられたもの)を可能にしたのは、この絶対に無条件的なものだけである」

つまり、「全体」が必要なのは、あくまで〈条件づけるもの〉だけであり、それを希求するには過去へと背進するだけで十分なのである。ここで言う「全体性」を完成させるために必要なのは、「無条件的なもの」だけである。
「この系列に全体性があることを、理性は前提にしていないのである」という文章は、一見矛盾しているように思われた。しかしこの「全体性」という言葉は、〈条件づけるもの〉の全体性ではない。恐らく、「世界の終わり」のような〈条件づけられたもの〉の終着点に位置するような理念が与えられることによって成立するような「全体性」を、理性要求していないということなのだろう。

これは誤っているかもしれないが、以下のような仮説を立ててみよう。
カントが言う「全体性」の成立のためには、「始まり」と「終わり」が必要となる。その「始まり」を定立するためには、経験の系列を無限に遡行して得られるような超越論的な理念が必要となる。しかし、「終わり」に関しては、すでに「いま」という形で与えられている。超越論的理念が、〈いま〉という帰結からそれを無限に過去へと進行し、「無条件的なもの」にまで到達することによって確立する概念である以上、その「全体性」の終着点は、「いま」で問題はない。即ち、未来へと進行して、その果てを求める必要はない。

背進的な総合

カントが問題とするのは、与えられた〈条件づけられたもの〉から、それを帰結させた〈条件づけるもの〉へと進行することであることが明らかになった。カントはそれを、「前進的な総合」と「背進的な総合」という語を使って整理している。

わたしは〈条件づけるもの〉を遡る系列、すなわち与えられた現象から始めて、そのもっとも近い条件を求め、次々に遠い条件にまで遡って行く系列の総合を背進的な総合と呼ぶことにしよう。そして〈条件づけられたもの〉から下降する系列、すなわちそのもっとも近い帰結を求め、次々に遠い帰結にまで下降して行く系列の総合を、前進的な総合と呼ぶことにしよう。

もはや新しい記述はなく、ただ〈条件づけられたもの〉から〈条件づけるもの〉への進行を「背進的な総合」と呼び、その逆を「前進的な総合」と呼んでいるだけである。
そして、この「背進的な総合」こそが、カントの考察の対象となるのである。

次回以降、この「背進的な総合」に適うカテゴリーを選別していく作業に移る。