『純粋理性批判』を読む vol.1「世界概念とは何か」
(本記事は、複数回にわたって連載中の「『純粋理性批判』を読む」の一部です。記事一覧は、下記をご覧ください)
範囲:19頁〜23頁(中山訳)
純粋理性批判の構成と二律背反
『純粋理性批判』における第二編・第二章「純粋理性の二律背反」を読み始める前に、同章の本全体の中での位置付けを確認しておく。
『純粋理性批判』はその構造からかなりややこしいが、アウトラインを以下のように示すことができる。
第一部 超越論的原理論
第一部門 超越論的感性論
第一章 空間について
第二章 時間について
第二部門 超越論的論理学
第一章 超越論的分析論
第二章 超越論的弁証論
第二部 超越論的方法論
このうちの強調部「第二章 超越論的弁証論」は、さらに以下の三章に区分することができる。
第二部門 超越論的論理学
第二章 超越論的弁証論
第一篇 純粋理性の誤謬推理について
第二篇 純粋理性の二律背反
第三篇 純粋理性の理想
この第二編の「純粋理性の二律背反」こそが、「二律背反」について論じた当該箇所である。
超越論的弁証論における3種類の推論
この超越論的な弁証論の序のところで、純粋理性のすべての超越論的仮象は、弁証論的な推論によって生まれるものであることを示した。カテゴリーがその論理的な図式を、すべての判断を四つの機能から示したのと同じように、論理学は、この弁証論的な推論の図式を、理性推論一般の三つの形式として示したのである。
第1種の詭弁的な推論は、主体または心の全ての〈像・観念〉一般の主観的な条件の無条件的な統一に関わるものであり、理性推論においては、断言的な理性推論に対応するものである。
第2種の弁証論的な論証は、仮言的な理性推論との類比において、現象における客観的な条件の無条件的な統一に関わるものとなるだろう[この第二章ではこの問題を考察する]
第3種の弁証論的な推論は、次の第三章で考察するものであり、対象一般の可能性の客観的な条件の無条件的な統一に関わるものである。(20頁〜21頁)
いきなり硬い文章だが、これは先述の「超越論的な弁証論」のアウトラインに対応している。同章は、「誤謬推理」「二律背反」「理想」の3本立てだが、ここでは第2の「仮言的な理性推論」を扱うという事を述べている。
「仮言的理性推論」の意味は、例えば以下のような命題に基づいた判断である。
大前提:もしAがBであるならば、QはRである
小前提:AはBである。
結論:QはRである。
即ち、後件(QはRである)は、前件(AはBである)に条件づけられている。
これは、「定言的判断」が「SはPである」「SはPではない」という、他の条件の条件づけなしに成立する事と、対照的である。
この「条件づけ」こそが、二律背反の鍵となる。
その後、「唯心論」と「唯物論」についての説明が続くが、これは第1篇「純粋理性の誤謬推理」に関する話のようなので、飛ばしておく。
世界概念」について
続いてカントは、「世界概念」という言葉を持ち出しているので、考えてみたい。
絶対的な全体性を主張する超越論的な理念が、現象の総合にかかわるものである場合には、これをすべて世界概念となづけたいと思う。(22頁〜23頁)
「絶対的な全体性」とは、理性が作り出す「超越論的な理念」だろう。この理念が現象の総合にかかわる場合には、カントは、「世界概念」と名付けている。その理由がこのあと続くが、他にもっとわかりやすい箇所がある。
ここで検討している理念をすでに、宇宙論的な理念と名付けておいた。その第一の理由は、「世界」という語によって、すべての現象の総体が考えられているからであり、この理念は現象のうちにおける無条件的なものをだけを目指しているからである。第二の理由は、この〈世界〉という語によって、超越論的な意味では、実在するものの総体の絶対的な全体性が考えられているからである。(43頁)
これは、二律背反における理念を「宇宙論的な理念」と名付けた理由として記述されている。しかし、「これらの理念は全て超越的なものであることから判断して、それらをすべて世界概念と名付けるのがふさわしい」(43頁)とすぐ後に述べられていることと、理由づけの中で「世界」という言葉が使われていることから、カントは「宇宙論的理念」を「世界概念」と同義的に用いていると考えられる。
この理由説明に準拠すると、カントは二律背反における理念は、「世界」という語を指すことによって、「現象の総体」を指している。またそれは、超越的な事物ではなく、実在する経験可能な総合だけに関係する。
これと対比的なのは、「純粋理性の理想」である。これは第3章で扱われるようだが、それは「世界概念とはまったく異なる性質のもの」(23頁)であるという。なぜならそれは、「可能なもの一般の総合」に関わるものであり、現象一般に関わる世界概念とは、大きく異なるからである。
「世界概念」、つまり本性において扱われる理念は、現象とは不可分である。このことは、非常に重要である。
なぜ「超越的理念」と呼ばないのか?
さらに本件と関係する記述を読む中で私が感じた疑問に対する仮説を、提示しておきたい。
まず、世界概念が「超越論的理念」と呼ばれていることである。世界概念は、経験可能な世界を超えた条件づけられないものを設定するのだから、世界から超越したという意味で「超越的理念」と名付けてもいいように思う。
カントが「超越的」としない理由は、以下の文によく表れていると私は思っている。
これらの理念(筆者註:宇宙論的理念)はすべて超越的なものであることから判断して、それらをすべて世界概念と名付けるのがふさわしいとわたしは考える。ただしここで〈超越的〉といっても、それはこれらの理念がその客体を、すなわち諸現象をその存在の方法において超越するという意味ではない。これらの理念は叡知的な存在〈ヌーメノン〉とかかわるのではなく、感性界だけにかかわるものの、この総合を推し進めるあまり、すべての可能な経験を超え出てしまうのである。(43頁〜44頁)
つまり、二律背反を生み出す宇宙論的理念を「超越的理念」と呼んでも問題はない。現にカントは、「超越的な自然概念」という言葉も用いている。しかし、カントが「超越論的」という言葉を多く用いたのは、「超越的」という言葉が、ミスリーディングだったからだと考えられる。
二律背反における理念は、あくまで「経験可能な現象」にかかわる。しかし、その現象を過度に総合しようとした結果、超越的な理念を持ち出してしまうのである。つまり世界概念とは、「現象」という内在的な契機と、「理念」という超越的な契機の両方を持つ。「超越的理念」と呼んでも間違いではないが、それでは理念の一側面しか表現していないのである。
「宇宙論的理念」と「世界概念」とは、そもそも緊張関係にある異なる概念が結びついてできた言葉である。前者においては、「宇宙」という現実世界と、「理念」という超越的事物である。後者においても、同様の関係が見られる。
問題は、「超越論的理念」という言葉の解釈であるが、これは「宇宙論的理念」「世界概念」の上位概念だろうと私は考えている。
絶対的な全体性を主張する超越論的な理念が、現象の総合にかかわるものである場合には、これをすべて世界概念となづけたいと思う。(22頁〜23頁)
この「二律背反」で検討するのは、この「超越論的理念」が「現象の総合に関わる場合」だけである。その限りにおいて、カントはそれを「世界概念」と呼ぶ。そして、「超越論的理念」が「すべての可能なもの一般の条件の総合」にかかわる場合には、それは「神/純粋理性の理想」と呼ばれるのである。
また、この場合の「超越論的理念」の「超越論的」の持つ意味だが、「人間がアプリオリに持つ理性が不可避的に生み出す」ではないかと私は思う。「超越論的」とは、また定義が難しく、カントは多義的に用いている。包括的にそれを定義するならば、「人間の認識の仕方に関する」くらいになるだろうが、これは先述の用い方を包含すると思っている。