コペンハーゲンの昼下がり

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近代的思考への批判としてのシンボル的形態

人間とは、どういう存在なのか?他の動物と何が違うのか?
メルロ・ポンティが考えた「シンボル的形態」を見ながら、これについて考えましょう。

近代的思考

まず、メルロ・ポンティが批判した「近代的思考」について、まず概観します。

デカルトの意図はどうあれ(デカルトはそんなに単純に考えていなかったのでは)、彼の「我思う、ゆえに我あり」の命題に現れている「思う我」は、近代において絶対的な地位を与えられました。
即ち、「思う我」が認識した限りにおいて、「世界」は存在する。その「世界」は、「思う我」の数量的に規定された理性的認識によって把握できるものである。

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この近代的な思考は、「観念論」と「唯物論」という相反するものが、「思う我」の絶対性への信仰の上に合成されている。つまり、「思う我」が認識する限りにおいて「世界」は存在するのだという点において、観念論的です。また、「思う我」が認識した「世界」は、数量化可能な空間ですから、この意味において唯物論的なのです。
この「思う我」への絶対的信仰は、自然科学的探求にとどまらず、歴史や社会的変革においても継承されました。それは、ヘーゲル的な「理性的なものの現実化」という観念論的歴史観にその極致を見る事ができる。マルクス主義的な革命理論もそうでしょう。

ゲシタルト心理学

しかし、この「近代的思考」は、様々な欠陥を露呈します。それは、非ユークリッド幾何学の発見やゲーデル不完全性定理の提唱による「数学の危機」や、不確定性原理相対性理論の発見による「物理学の危機」に端的に見られます(これについては、また別記事で考察)。

そして、この近代的思考に基づいた心理学も、限界を迎えます。
初期心理学は、物理学的方法に学び、人間の行動や心理現象を物理的過程としてとらえようとしました。即ち、測定可能な物理的刺激と単純な反射行動を一対一で対応するものと考え、その単純な行動の複合によって、人間の複雑な心理活動や行動を説明しようとしたのです。

しかし、この方法の限界を指摘したのがゲシュタルト心理学者たちでした。彼らによれば、初期心理学者たちは以下の点で間違っている。
●「恒常仮定」:外界からの一定の刺激に対して、生物が必ず一定の反応をするという仮定
●「要素主義」:人間の行動は、どんなに複雑なものであっても、単純な「要素」に分割可能であり、その「要素」の複合として説明が可能である。

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ゲシタルト心理学者たちが重視したのは、「関係」と「意味」です。
「関係」を例を挙げて説明しましょう。ケーラーが鶏を使って行った実験があります。それは、鶏に「普通の餌」と「薄い餌」の2種類を与え、「薄い餌」だけを食べるように訓練する。訓練の結果、鶏は「薄い餌」を食べるようになった。
そこで、3種類目の「濃い餌」を与えます。すると鶏たちは、それを食べるように躾けられた「普通の餌」よりも、新たに与えられた「濃い餌」を多く食べたというのです。
つまり彼らは、餌の色を物理的な色調としての色ではなく、異なる色調の「関係」として捉えていたのです。

さらに彼らは、「意味」を重視する。生物にとっての「世界」とは、定量化可能な「中性的」な世界ではない。その認識主体がもつ内的規定と環境という外的規定とによって決定される、その主体にとっての「意味」によって大きく変わるものだとしたのです。

これはフッサールによって本格展開される。近代的思考が対象とする客観的世界は、「思う我」への信仰に基づいた相対的・二次的なものに過ぎない。それは、それよりも本源的・原初的な世界を覆い隠してしまっている。その隠された世界こそフッサールの「生活世界」なのです。理念化された客観的世界を反省して、我々に直接的に与えられる生活世界を記述すること。そのために、「現象学的還元」が必要になるとフッサールは提唱したのです。
フッサールハイデッガー現象学についてはまた別記事で考察するとして、続いてメルロ・ポンティについて考えましょう。

「シンボル的形態」

これまで、生物の行動や心理現象を客観的に考察することの限界を見てきました。
新たに必要となる方法は、生物の行動や反応、心理現象を「主体的」に考察すること。即ち、生物を単に環境的に規定されたものと見るのではない。所与の物理的環境の中に生きる存在として見ながらも、それを主観的「意味」を通じて認識して自らのあり方を変え、さらに環境をも変えるような存在として考えることです。

メルロ・ポンティは、生物の行動を3つのカテゴリーに分けています。それは低次から高次に分化され、低次なものから並列すると、①癒合的形態、②可換的形態、③シンボル的形態となる、

① 癒合的形態

これは、下等な動物において支配的に見られる行動の構造です。これは、所与の物理的環境に対して単純に反応するだけの「本能的」とも言える行動です。こうした低次の構造に基づいた行動は、単に状況に自らを癒合させるだけのものです。

② 可換的形態
より高次なのが可換的形態。これは、環境の変化に対して自らの行動を柔軟に変える、つまり学習が可能であるという意味で「可換的」です。この段階になると、主体である生物は、環境の質量的側面を離れて、「意味」を媒介して外界を認識し行動できることになる。例えば先述のケーラーによる鶏の実験。鶏たちは、「餌の濃さ」という質量からは自由に、異なる濃さの餌を全体の配置の中で理解し選択していました。これではまだ「意味」を見出しているとは考えづらいかもしれない。しかしこの「意味」理解の度合いが深まると、生物は道具を使うことができるようになる。
道具を使うために必要な思考は、自ら「目的」や「目標」を認識して、それの達成のために手段を選択する事でしょう。これは主観的な目標や意味を媒介せず、単に外的な物理的刺激に反応するだけの癒合的形態とは大きく異なっています。
わかりやすい例は、チンパンジー。人間に近い彼らは、餌をとるために竹竿をつないだり、踏み台となる箱を積み重ねたりします。

③ シンボル的形態
そして、シンボル的形態です。
これをわかり易くするために、上述のチンパンジーの行動の限界について考えてみます。

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道具を使い、目標に到達する。こうしたかなり高次の行動ができるようになったチンパンジーですが、彼らには出来ないことがある。それは、異なるパースペクティブから物事を見ることです。
コの字型の枠の内部に餌を置き、チンパンジーがその入口とは真逆に位置しているとしましょう。それを上から眺めるチンパンジーが(手は届かない)、対象を手に入れるためにとれる方策は、2つです。1つは、自らが迂回して、入口に向かって餌を入手すること。そしてもう1つは、棒を使って目標を迂回させ、自らの元に引き寄せること。どういう実験方法かわかりませんが、チンパンジーには「目標を迂回させる」事は、かなり難しいようです。

よく考えてみると、この「目標を迂回させる」とは、かなり高度な行動です。それに必要な思考は、まずその目標という異なる地点から見た世界(パースペクティブ)を想像し、もし自分がその目標の地点にあった場合にとるべき動きを考えた後、現実的な自分のパースペクティブに立ち返り、対象を移動させるというものです。

この高次元に必要な行動には、「自分と異なるパースペクティブから環境を見る」事が必要になります。
つまり動物は、外在的に規定された所与の状況を超越する事ができない。せいぜい出来ることは、その時々に与えられた状況に意味や目標を付与して、自分の行動を変えることです。

しかし人間は、違う。
彼らは与えられた状況・環境に縛られるだけではない。環境に規定されながらも、その所与の外的世界とは異なった世界を見ることが出来るのです。人間は意識という次元においては、所与の環境とは異なる世界を「創造」することが出来る。

これはどのようにして可能になるのか。メルロ・ポンティは、「シンボル」を通じて可能になるといいます。実はこの「シンボル」の解釈が難しいのですが、私なりの考察を書いてみたい。

つまりそれは、具体的存在の抽象度を高める「一般的原理」だと思います。例えばチンパンジーは、使いなれた「木の椅子」を踏み台にして餌をとることができても、新しく与えられた「プラスチックの机」を使用することができないことがあるという。
これは我々人間には容易なことですが、それが可能なのは、目の前に与えられた「プラスチックの机」を「踏み台になり得るもの」という一般的意味に解釈することが出来るからでしょう。「踏み台になり得るもの」という一般的意味を媒介して、「プラスチックの机」は「木の椅子」と等置させ、同じように道具として使用できる。

しかしチンパンジーには、外的物質に一般的意味を付与する「一般的原理」がない。ただ与えられたものは、見慣れない「プラスチックの机」であり、それが「木の椅子」と同じ意味を持つ踏み台として認識されないのです。彼らはやはりまだ所与の環境に支配されていると言えます。

先述のコの字型の枠の例で言えば、我々人間が餌を迂回させることが出来るのは、それが我々と同じ空間に位置する「物」であると抽象的に理解するからではないでしょうか。「物」という一般的概念を媒介することによって、餌と自分たちを「同じ空間に位置するもの」として認識することが出来る。だからこそ、その餌の視点に立って、異なるパースペクティブから物事を見ることが出来る。
我々が他者の気持ちを想像するのも、このような一般的原理によって他者と自分を同じ「感情を持つ人間」だと考えてその気持ちを類推しようとすることによって成立しているのではないでしょうか。

このシンボルのわかりやすい形態が、言語でしょう。思い出されるのは、ヴィトゲンシュタインです。彼は、言語によって人間は現実化している世界の別のあり方の可能性を考察できるとしました。

人間も身体を持つ物理的・生物的存在ですから、環境からの規定を逃れることは出来ない。しかし、その環境に縛られることなく、別の世界を構想することが出来るのです。